12/01/2006

和諧社会なら百姓は禁欲しなければいけないのか?情色六月天主犯の無期懲役について

注:今月(11月)22日、山西省太原市地方裁判所は、「情色六月天」というアダルト動画サイトの経営者一味に対し、判決を言い渡した。主犯格の陳輝が無期懲役になり、各方面の反響を呼んでいる。中でも、性行為を専門とする社会学者の李銀河(小説家王小波の未亡人)は、該当分野の法整備の妥当性に疑問を投げかけている。

ネチゼンの間でも、本件は中国政府のインターネットの自由度を狭める傾向に警戒し、厳罰主義に基づく判決に不満な声が多数上がっている。怒りに満ちた本文作者もその一人で、文中法律に関する見解に不備な点も見受けられるが、一般人の平均的な見方を凝縮している。


特に注目すべきなのは、中国社会の風俗の無秩序な現状、及び官民の感情対立、さらには貧富の格差に対する描写は今日の中国社会の矛盾を浮き彫りにしている。


国中にその名を轟かせた「情色六月天」案の主犯が無期懲役に処され、政治権利の終身剥奪が宣告された。この量刑は、死刑のない国においては死刑を意味し、廿一世紀においては受け入れがたい判決であり、法律の意味での判決ではなく、道徳的な判決である。この判決は智慧の欠けた判決であり、自己欺瞞的な判決である。今日の中国において、全国の「小姐」(売春婦)は現に千万単位で存在し、数十万の風俗店も営業されている。毎日これらの風俗店に出入りする男女も数千万を数え、コンドームが堂々と五つ星ホテルのトイレに配布され、アダルト商品店が全国の津々浦々の遍在、お妾を飼うのも一種の生活様式になりつつある。これらの状況はインターネットが百姓の家庭に普及する前から周知の事実なのだ。さらに、中国のおよそあらゆる都市に事実上の風俗街も存在しているこの現状の下で、アダルトサイトの運営者を無期懲役に処する道理は何処にある?彼による危害は街に遍在するサウナ浴場と風俗床屋よりも大きいというのか?彼の稼ぎはサウナ浴場と高級夜総会(クラブ)のボスたちよりも多いのか?何を以って「情状特別厳重」というの?(彼のサイトの)エロ画像を見て強姦を犯した人は居たか?見て自殺自害した人でも居たのか?

この判決は根拠のない判決であり、当事者に対して、司法の大きな不公平を課している。なぜならこの判決は現実を顧みないで、曖昧な法律条文に基づいている。今日の現実に照らし合わせてみれば、もっと智慧のある判決が下されるべきだが、残念ながら、中国ではこのような案件の場合、裁判所は毎々にして潜在意識に元でもっとも厳しい処罰手段を用いており、新しい形態の犯罪に対して、当事者に酌量することは稀である。中国では判例主義を採用していないにしても、この判決は間違いなく今後の類似案件に顕著な影響を与える。

中国の現状を見れば、風俗産業は存在するだけではなく、準合法状態にもなっており、真剣に取り締まれば、まず中国の牢獄に犯人は入り切れるかどうかも問題だ。このように億万人が関連の法律を犯している中、法律が極少数の非運者しか罰さないのだったら、この法律の実質な意味は何処にある?中国の法律の着眼すべき所は、何で同じく汚職であっでも、数百万の金額の者は死刑で、億単位のやつは無期で済んでしまう;あるいは県の党書記は交通警察を殴っても無事で、民間人は同じことをしたら公務執行妨害になる;車の致死事故を起こしでも、同じようなケースで全国各地に執行猶予と死刑即執行に分かれるような奇妙な裁判なのだ。これらの現状は、中国の法律は完全に黙視している。

今や適当にCDショップに入ればアダルト盤が入手でき、人々の性に対する受容レベルも一昔と大分違っている。元をいえば、性に対する認識と態度は完全に個人生活レベルの問題だ。政府が過当にこの領域に対する干渉、一定の性的観念を植え付けるのは賢明ではないのである。エロ画像や動画の経営は、結局営利を目的としており、経済行為である。経済手段での処罰を以って解決するべき問題であって、もっとも厳しい法律手段で厳罰主義な判決で臨むべきではない。

あざ笑いを禁じえないことに、中国の法学者はこの事件に対して集団的に黙り込んでいる。嘗ての劉涌(遼寧省鉄嶺市のマフィア首謀)の案件では、およそ全国の優秀な弁護士が弁護団を結成し、案件を幾度も引っ繰り返し、最高裁が表に出て収束するに至る。一昨年の馬加爵(雲南省の貧乏大学生殺人犯)の案件の場合も、弁護士たちは跳梁し、逮捕当日に数千里の道のりで馬の家に無料弁護委任状を乞う輩まで出現した。なぜだ?眼の効く人なら判るだろうが、劉涌の場合は金が、馬加爵の場合は名声が得られるのだ。これらの個別な通常刑事案件と比べて、今回の案件の場合は将来にわたって類似案件にもっと深い影響を与えるのが明らかにも係わらずにだ。中国の法律家たちは、嘗て汚職などの経済犯罪に極刑は避けるべきだと叫んでいたが、いまのこの生々しい案例は典型的な経済案件(判決の罪名は猥褻物伝播営利罪)であるのに、当事者は死刑相当な判決(この罪名の最高刑罰)を受けている。ならば、この判決を引っ繰り返そうじゃないか。

買春する人の中で大半は公職に付くものだ、百姓にはエロ画像を見る事もいけないのか?そういう欲求を満たされないまま死ぬべきなのか?判決というのは官僚たちのやる事だが、買春したことのない裁判官は何人いるの?エロ画像を見た事ない人は何人?

今や億元単位の汚職でも死刑執行猶予しかならないのだ!

和諧社会は百姓の禁欲と金持ちの淫乱の上で成立つものなのか? 

原文

11/30/2006

深圳の買春防止キャンペーン

なにやら「和諧社会」の樹立には法律だけでは物足りないらしい。

年末も近づき、深圳の警察当局は地元の「和諧」のために、買春撲滅キャンペーンを実施、その成果は10名の香港人を含む167人を逮捕。

29日、買春犯罪が頻発する上沙、下沙と沙嘴の境に当たる地点で公開裁判が行われた。

法治の整えた文明社会からは遠く離れた光景である。

文革時代と違っているのはマスクの着用が許されたことだけ。







肝魂お妾さん

中国の腐敗官僚や汚職した重役に「二奶」(お妾さん)は付き物。

それにしてもこの中国対外建設総公司深圳分公司の総経理、姚傳鋭の「二奶」劉倩はやはり群を抜いている。

なんと、汚職が発覚され、北京のホテルで拘置されている姚傳鋭の身柄奪還作戦を指揮し、敢行したのである。

この事件は中国社会の「黒幇化」(マフィア化)の一端をよく表している。

呆気なく逮捕され、法廷に立たされているミッション参加者の面々をご覧あれ。

11/29/2006

「和諧権」「実名制」そして『大国堀起』

「和諧権」という言葉がこのごろ中国のインターネット上で良く見かけるようになった。

中国全人代常務委員でもある中国政法大学教授の徐顕明氏が提起した人権に関する新しい概念だそうで、本人によれば、これは「第四代人権」なる概念で、その実践は「人権発展の歴史的な新しい段階を作り出す」とその発案された意味をさらに強調する。

「和諧」とは、現代中国語的な語意的に、「睦まじい」、「調和のとれた」という状態を表す言葉である。従って、「和諧権」を文面的な日本語に訳した途端に理解できなくなる。「睦まじい権利」、「調和のとれる権利」なんぞやそれ。

肝心な中身を検討して見よう。徐氏によれば、「所謂人権は、一定の社会的、歴史的条件下においての人々がその本質と尊厳に遵って有する又は有すべき基本権利である。」この規定自体中で、「その本質と尊厳に遵って」の下りは既に理解に苦しむ文言になっており、なにやら言いたい事はある程度分かるという文面になっている。

「和諧権は、公的権力が人々を適切に取り扱うことを要求すると同時に、人々が自分の権利を主張する時に、自律の尺度を加え、即ち他人の人権に対する尊重を自分の人権行使の義務と考え、公共利益の実現を自分の人権行使の責任と認識、さらには人類の全体の立場に立って自然を適切に扱うことを人権の発展する道徳な限度で考えなければならない。」

「人権」という単語がこの短い文章に何回も出て来るが、肝心の主旨は見て分かるように、人権行使の義務、責任そして限度なのである。正直なところ、こんな文章を読んで、この政法大学教授の専門を調べる気力すら涌かない。なぜなら、この「和諧権」は法律で定める国民の権利とはとっても思えないし、こんな思想はとっても近代的な法学者の思想とは到底考えられないのである。

中国の人権問題を巡っては、嘗て西側の指摘をかわすために、何新という学者を中心に発案された、中国の特殊性を強調した「生存権」や、「発展権」と云った概念が度々用いられる。これらの概念に関しては、人権とは別ものだとしても、一応「権利」として認められないわけでもない。今回のこの「和諧権」は権利ではなく、義務なのだ。「和諧権」を行使することは、即ち「和諧しろう」ということではなかろうか。

問題なのは、この「和諧権」は提案として議論されている段階に止まっていることではなく、このような憲法無視とも言うべく動きは最近益々活発になっている。その最たるものは「ブログ実名制」である。

「ブログ実名制」は囁かされてから激しい反発を招いているが、遂に実行されることになった。 

今月19日、「中国インターネット協会業界自律工作委員会」秘書長の楊君佐氏が、ブログ実名制の確定を発表した。ニックネームを使うことは認めるとしながら、ブログの開設には身分確認が必要になることが情報産業省によって決められたことを確認した。

いわば言論と表現の自由に係わる重大な事柄が、立法機関の手続きを経ずに実施されようということについて、楊氏は「言論の自由は相対的なものである」、さらには実名制によるネット上の悪言中傷、ないしはプライバシイの侵害を防ぐためだと説明している。

こうした論調は憲法の任意解釈のおそれがあるだけではなく、インターネットユーザーに対して有罪推断を行っているのではなかろうか。

人権には義務を課す、自由には限度があると言い、国民の知る権利はGFWによって激しく侵害されている中、真の「和諧社会」(調和のとれた社会)は果たして樹立されるだろうか。

前回触れた『大国堀起』の上映が中国政府の世界の大国になる意思を表しているのであれば、少なくとも基本人権に対する任意解釈、行政による憲法無視を根絶し、国民の知る権利を大いに保障すべきなのである。

民意を無視した一時的な便法は国の根幹を揺るがし、政権中枢の孤立を招く結果にしかならないことは明白である。

11/27/2006

『大国堀起』について

『大国堀起』なるドキュメントリー番組が中国中央テレビで放映され、論議を呼んでいる。その内容は欧米列強及び日本の15世紀以後の発展の軌跡を辿り、背景と原因を探るというものだ。

11月13日から24日にわたって放映されたこの番組は、昨今の中国の現実を照らし合わせて見ると、やはり異様である。 

特に注目すべきことは、中国政府を代表するメディアがこの番組に対する評価。

『人民日報』のネット版である人民網は、18日に早速紹介文を掲載、この番組の重要性を強調している。

「今日の中国は、中華民族の偉大なる復興の道を歩んでいる。広大な土地、膨大な人口と悠久な歴史を持つ中国の富強は人類発展史上の重大事件を作り出すであろう。と同時にこの過程は深く中国社会を改め、世界の局面に影響を及ぼす。近代以来の160年の追いかけの末、世界は中国の声を再び聞こえるようになり、新中国成立してから、特に改革開放してからのこの30年間の変貌を経て、我々に自信と余裕を持ってこの世界に立ち、自国の強国の道を模索できるようになった。」

さらに、この紹介文は番組の制作背景にも触れている。

「2003年11月、中共中央政治局は第九回目の勉強会を行ったが、この勉強会は広く注目された。勉強会の内容は:世界の9ヶ国の15世紀以来の興起の歴史であった。それからも、こうした歴史の勉強は各階級の政党部門で行われた。」

因みに、その9ヶ国とはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、米国である。

最後に、この紹介文は、「歴史が我々の未来の道を照らせよう」と結んでいる。

なるほど、この番組は中国国民に、大国の国民になる心構えを植え付けようとしているのではなかろうか。

しかしながら、資本主義の発展の歴史は、市民が王制から権利を獲得して行く過程でもあり、民意の支持がなければ、大国なんぞありえないのだ。

案の定というべきが、その日本に関する第七回を見た。明治天皇への権力の集中が強調された外、渋沢栄一の重商主義や、福沢諭吉の脱亜入欧論が取り上げている。

一方、明治国家建設に伴う国民の苦しみや犠牲、その反抗の結果とも言うべき地券の発行、松平正義らの民意重視と公平精神などは一切触れていないのである。

腐敗や不正が横行、各地での土地の取り上げが抗争を引き起こしている一方、言論の自由が厳しき制限されている中、「即今民心を得るをもって、要とするよりほかはけっしてこれなし」――こうした松平正義の言葉こそは、今の中国政府に一番必要なアドバイスではなかろか。