11/04/2006

『敏感』過ぎて『連想するな!』

人騒がせの王小峰は、今日も楽しませてくれる。

彼はの雑誌『三聯生活週刊』の編集部長を勤めており、名門大学の法学部出身であるにも拘らず、学生時代から演劇活動や音楽評論に精を出し、結局三聯生活週刊雑誌編集部で収まった。

最初にかれが執筆していたブログは「按摩乳」という怪しげなタイトルで、見るからにポルノを思わせがち。ペインネームも「代三個表」(腕時計を三つ嵌める)といい、明らかに江沢民「三つの代表」思想を揶揄している。

王氏は、軽妙な文章で世間の出来事を批評し、大変な好評を得て、後にブログ文章を一冊の本にして上梓している。

一見関係のない事柄を「引っ掛け」て、政治的な理由で平べったく言えない事柄を風刺し、批判するというのは、彼のいつもの常套手段である。

現在更新を中止している「按摩乳」の注意書きに彼は「ブログを離れ、命を大切に!」と掲げた。これは中国の麻薬撲滅キャンペーンのキャッチフレーズを引っ掛けているのだが、ブログに没頭すると、「俺から有害な思想が移るぞ」という皮肉と、書き始めると「幾ら時間があっても足りない」というブロガーの心情を見事に捉えている。

現在進行中の『不許聯想』は「連想するな!」という意味で、これもまた色んなことを引っ掛けている。「聯想」自体はかのIBMのPC部門を買収した会社レノボの中国社名であるが、「連想するな!」と言うとおり、彼の書いているものを深く考えると反政府、非主流的な方向に行ってしまう傾向があるのだ。

因みに、彼の趣味は色んなTシャツの収集と、各種サボテンの養殖だそうた。やはり変わり者である。

今日の掲載内容を見てみようっと。おっとっと、行き成りアクセスが拒否された。

この現象は中国のサイトにアクセスする時に良くある現象。「敏感」な言葉や、内容に何回もサクセスしようとすると、そのサイトが消えてしまうのだ。(詳しくはここを参照。)
さて、やっとの思いでProxyサーバーを使い、例文として使うその目標の文章に辿り付いた。

そのタイトルもなんと『敏感』であった。本文はざとこんな具合:

2005年、私は2006年中にまともなことをやってやろうと思い、例えば文革とか、唐山地震の特集でもやりたかった。ところで、整数の年に当たり、出来なくなってしまった。

ならば、2007年で何かをやろうじゃないか。反右派闘争50周年記念でもどうだろう。これも多分敏感過ぎて出来やしない。

2008年?大躍進運動50周年記念だ。これもきっと無理。でも大躍進運動50周年記念のために、オリンピック大会をやるのか。

2009年?三年間の自然災害の最初の年、敏感に違いない。

2010年?三年間の自然災害の二年目...

2011年?三年間の自然災害の三年目...

...... こんなのじゃ、趙本山先生の言葉を借りて言えばまるで「長い竿でおいらを紀元3000年に突っ張り飛ばしだ。」のだ。

この内容って、日本人の方々には何にかなんだかぴんと来ないと思うが、中国人には彼の言いたいことが直ぐに分かる。

要は、筆者が言論人、マスコミ関係者でありながら、厳しい情報統制の中で、封印された歴史事件の多さにがっくりし、皮肉以外には何にもできない、という実状を言い伝えているのだ。

この短い文章の中には、沢山のメッセージが含まれており、特に2009年といえば、六・四事件20周年に当たる年なので、彼は1959年から発生した三年間の自然災害で誤魔化しているが、本当は1989年の記憶を喚起したいのだ。

これこそが昨今の中国社会において、最も敏感な年でり、事柄であろう。

11/03/2006

炭鉱事故多発、そして発禁映画

十月二十八日午前二時三十五分、新疆ウイグル自治区生産建設兵団農六師団102団所属、八一炭鉱で、ガス爆発が発生。目撃者によると、爆発当時は建物が揺れ、地震と思い、外に出たとき、炭鉱の出口から炎が噴出し、約30分経って、もう一回爆発があり、噴出しだ炎がエレベーターの鉄骨を赤く焼き染めた。炭鉱・働者14名が行方不明、現場ではほかの6名の死亡が既に確認されている。--『中国新聞網』

ブログを書き始めて一週間未満の内に、中国ネット上の炭鉱事故が目立つことを再発見、注目してみると、中国では、炭鉱事故は頻発、平均して年間1万人の炭鉱・働者が事故で死亡するとなっており、安全生産がそれまでになく叫ばれていた去年でも、7000人以上の命が失われています。

こうした背景に、第53回のベルリン映画祭で、チャン・イーモウの『英雄/ヒーロー』を打ち破って銀熊賞を受賞した、中・独共同制作の作品『盲井/Blind Shaft』は、中国における炭鉱事故の多発を背景に撮られた社会派映画である。

監督の李揚(リー・ヤン)氏は中国で助監督を経験し、ドイツで映画監督を学び、リアリズムに徹しながら、地中深く炭鉱の底で広げられる人の魂の死闘を描いている。

ある炭鉱町の駅前で、二人の男が、出稼ぎに来た人を狙って詐欺を行う。この二人はそもそも炭鉱夫だが、賃金が薄い上、炭鉱というものの非情さに気づく‐‐鉱夫が事故で死んでも、慰謝料を払えば炭鉱主は無事安泰。

しかし、まさこの慰謝料が彼らを触発した。それまでに彼らは数々の凶行に及び、人を騙しては殺し、事故に偽装して慰謝料を炭鉱主から受け取っていたのだ。

作品は人間の欲望を裸にし、良心を鋭く突き、中国の炭鉱に焦点を絞りながら、経済改革を掲げる中国での人間性の欠落、モラルの低下を冷静且つ痛烈に批判している。

例に漏れずとも言うべきか、この作品も中国国内では発禁処分を食らい、大陸で見るためにはインターネットからのダウンロードしかない羽目になった。

後のインタービューの中で、監督は撮影途中での体験に触れ、ロケ中に幾度も命の危険を感じ、炭鉱主の威嚇を受けることもあれば、撮影終了した数日後に爆発崩落し、死者を出したロケ地もあった。

2003年3月に映画『盲井/Blind Shaft』は、ベルリン映画祭に続いてフランスのドーヴィル・アジア映画祭で最優秀作品賞他5つの賞を受賞。

11/01/2006

いつものように、心が痛む 


どちらが是てどちらが非に関わる煩わしい評論や、政客やら怒りに満ちた若造たちによる弁解と討伐とは関係ないのだ。思い出せば、いつものように心が痛む。

14年が去った、沢山のことが欠片もなく忘れられた。その夜の数々の断片だけは依然として生々しい。

思えば大腿動脈に銃弾を受けた、あの河南何とか農機学校の子、血を流しながら広場に担ぎ運ばれてきた彼は、そのまま私の膝に寄り掛かった。血がこんなにも勢いよく吹き出て、止められない。弱弱しく僕を見て、僕に聞いた、あんちゃん、今何時。私は彼の腕時計を覗き、彼に告げた、もう時期、明るくなるんだと。それから救急車がきた。彼の生死は今も僕には判らない。

思えば最後に広場からの撤退、軍人たちが頭に包帯を巻き、銃座と鉄棒でわれ等に殴りかかってきた。彼らの目には憎しみのほか、戦友をなくした悲しみの涙が含んでた。直ぐ側で同校の女の子が打ち伏せられた。僕が彼女を掲げ上げた時、彼女の目には恐怖と絶望しか残っていなかった。その瞬間は、なにか冥々中の陰湿な力が動いて、人類をこんなにも残忍にしたのかを全然理解できなかった。

思えば明けごろ、六部口で装甲車と催涙弾の後、僕は二人の北京市民、母子二人によって、倒れた人の山から裏道に引っ張り込んだ。帰郷のために北京駅に急ぐ、地方から来た二人の営業マンの運転するジープを止め、病院に送ってくれた。西単交差点を通り掛かった時、失神する直前に、踏ん張って外を一瞥した。四角は死体だらけだった。皆若い、何人かは裸であった。恐らく軍人だろう、濃い黒い煙とは対照的に、一層蒼白に見えた。彼らは誰も名前を残していなかった。けれど、この記念日になると、必ず思い出しては、心が痛む。

ほかにも思い出せるのが、ウーという友が前もってずらがったとか、尊敬する暁波と徳建のこと、最後に『美しい中国人』を歌ったこと、そして少年狂気な自分が呆然と戦車の燃える炎の前に立って、初めて死の残酷さと汚さ、それに死は如何に軽率であるかを知ったこと。これらは、先の場面と比べれば、とっても軽々と感じるのだ。あの夏の夜は、沢山の子供を成人させ、彼らが一生背負う夜になった。

今夜も、いつものように、祈り、哀悼し、死んて逝った全ての人々のために。

*1989年の六・四事件当時、本文著者の撒韬は北京師範大学文学部の2年生だった。事件後、彼は退学処分となり、故郷の貴州省で小学校教師となった、彼の献身的な教育活動は正に、ロビン・ウイリアムズ主演映画『今を生きる』さながらである。

初めての日本語Wikipedia「劉暁波」

初めての日本語Wikipediaの執筆で、劉暁波を書きました。大学の恩師であり、大切な友人でもあります。

劉暁波(りゅう ぎょうは)は中国著名な知識人、著作家、独立中文筆会主席、人権活動家、民主運動リーダー、元北京師範大学文学部講師である。

1980年代半ば、劉暁波は時の文学評論家李沢厚に対する批判でその名を馳せ、中国文壇の「ダークホース」の異名を持つ。

1989年、中国で民主化運動が勃発、当時米国遊学中の劉は即帰国を決め、運動に身を投じた。

六・四事件直前、劉はほかの知識人3名(候徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加する。

中国軍が天安門広場に突入する寸前、4人は軍人の中でも知名度の高い候徳健(当時ポップ歌手として名高い)を代表として推し、学生たちに逃げ道を残すように軍と交渉、最悪な事態を避ける。



事件後、劉は投獄され、釈放されてからも引き続き文章を発表し、六・四事件の殉難者の名誉回復と民主化を呼びかける。更に、劉は民間の人権を守る為の活動にも積極的に参加していある。

中国当局による劉暁波に対する逮捕監禁は現在も行われ、未だに、各国要人訪中や、人民代表大会会期中は、自由を失うと同時に、電話とインターネットによる交信が遮断される。

中国軍部が北の核実験に激怒?

(博讯2006年10月30日)
今月27日発行の香港週刊誌『動向』の最新号によると、中国軍部は北朝鮮の核実験に激怒し、援助を全面中止と同時に、中国ピョウヤン駐在大使の召還を求めた。

報道によると、北朝鮮は核実験の25分前、労働党中央連絡部より中国外務省に打電通告をしている。これを受け、中国共産党中央対外連絡部は即座に北朝鮮労働党中央連絡部に連絡を取ったが、北朝鮮は「我々は既に中国政府への尊重を表しており、中国側も我々の主権を尊重して欲しい」と返答。

『動向』の記事によると、中国指導部がその直後に召集した党と軍の合同会議の席上、国家主席の胡錦涛は「勧告に従わず、理性を喪失した行為であり、北朝鮮はこれによって信用を徹底的に失うだけでなく、好き勝手に事件を起こし、緊張局面を作り出した。」 と断じた。

会議中、党と軍部指導者は4つの決定を下した。その主な内容は、核実験を阻止できなかったために生ずる災難を警戒し、対応する;北朝鮮の内部情勢を密接に観察し、動向を把握する;韓国、米国、日本、ロシアの反応と日米両国の対応に注目する;第64集団軍と第16集団軍を北朝鮮国境沿いの北部地区に配備、局面の悪化に備える。

『動向』は更に、北朝鮮が3日に核実験を実施すると宣言した後、中国は中央弁公庁主任の王 剛氏と中国人民解放軍副総参謀長の張 黎氏をピョウヤンに急派し、金正日に胡錦涛の口頭メッセージを送っている。

このほか、香港『信報』は27日、時事評論家邱震海氏の投稿を掲載し、「北朝鮮が若しも二回目の核実験を強行した場合、中国は外交的な手段を放棄し、「北朝鮮打撃」賛成組みに転じ、金正日政権の転覆も視野に入っている。」と指摘した。