11/01/2006

いつものように、心が痛む 


どちらが是てどちらが非に関わる煩わしい評論や、政客やら怒りに満ちた若造たちによる弁解と討伐とは関係ないのだ。思い出せば、いつものように心が痛む。

14年が去った、沢山のことが欠片もなく忘れられた。その夜の数々の断片だけは依然として生々しい。

思えば大腿動脈に銃弾を受けた、あの河南何とか農機学校の子、血を流しながら広場に担ぎ運ばれてきた彼は、そのまま私の膝に寄り掛かった。血がこんなにも勢いよく吹き出て、止められない。弱弱しく僕を見て、僕に聞いた、あんちゃん、今何時。私は彼の腕時計を覗き、彼に告げた、もう時期、明るくなるんだと。それから救急車がきた。彼の生死は今も僕には判らない。

思えば最後に広場からの撤退、軍人たちが頭に包帯を巻き、銃座と鉄棒でわれ等に殴りかかってきた。彼らの目には憎しみのほか、戦友をなくした悲しみの涙が含んでた。直ぐ側で同校の女の子が打ち伏せられた。僕が彼女を掲げ上げた時、彼女の目には恐怖と絶望しか残っていなかった。その瞬間は、なにか冥々中の陰湿な力が動いて、人類をこんなにも残忍にしたのかを全然理解できなかった。

思えば明けごろ、六部口で装甲車と催涙弾の後、僕は二人の北京市民、母子二人によって、倒れた人の山から裏道に引っ張り込んだ。帰郷のために北京駅に急ぐ、地方から来た二人の営業マンの運転するジープを止め、病院に送ってくれた。西単交差点を通り掛かった時、失神する直前に、踏ん張って外を一瞥した。四角は死体だらけだった。皆若い、何人かは裸であった。恐らく軍人だろう、濃い黒い煙とは対照的に、一層蒼白に見えた。彼らは誰も名前を残していなかった。けれど、この記念日になると、必ず思い出しては、心が痛む。

ほかにも思い出せるのが、ウーという友が前もってずらがったとか、尊敬する暁波と徳建のこと、最後に『美しい中国人』を歌ったこと、そして少年狂気な自分が呆然と戦車の燃える炎の前に立って、初めて死の残酷さと汚さ、それに死は如何に軽率であるかを知ったこと。これらは、先の場面と比べれば、とっても軽々と感じるのだ。あの夏の夜は、沢山の子供を成人させ、彼らが一生背負う夜になった。

今夜も、いつものように、祈り、哀悼し、死んて逝った全ての人々のために。

*1989年の六・四事件当時、本文著者の撒韬は北京師範大学文学部の2年生だった。事件後、彼は退学処分となり、故郷の貴州省で小学校教師となった、彼の献身的な教育活動は正に、ロビン・ウイリアムズ主演映画『今を生きる』さながらである。

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