11/29/2006

「和諧権」「実名制」そして『大国堀起』

「和諧権」という言葉がこのごろ中国のインターネット上で良く見かけるようになった。

中国全人代常務委員でもある中国政法大学教授の徐顕明氏が提起した人権に関する新しい概念だそうで、本人によれば、これは「第四代人権」なる概念で、その実践は「人権発展の歴史的な新しい段階を作り出す」とその発案された意味をさらに強調する。

「和諧」とは、現代中国語的な語意的に、「睦まじい」、「調和のとれた」という状態を表す言葉である。従って、「和諧権」を文面的な日本語に訳した途端に理解できなくなる。「睦まじい権利」、「調和のとれる権利」なんぞやそれ。

肝心な中身を検討して見よう。徐氏によれば、「所謂人権は、一定の社会的、歴史的条件下においての人々がその本質と尊厳に遵って有する又は有すべき基本権利である。」この規定自体中で、「その本質と尊厳に遵って」の下りは既に理解に苦しむ文言になっており、なにやら言いたい事はある程度分かるという文面になっている。

「和諧権は、公的権力が人々を適切に取り扱うことを要求すると同時に、人々が自分の権利を主張する時に、自律の尺度を加え、即ち他人の人権に対する尊重を自分の人権行使の義務と考え、公共利益の実現を自分の人権行使の責任と認識、さらには人類の全体の立場に立って自然を適切に扱うことを人権の発展する道徳な限度で考えなければならない。」

「人権」という単語がこの短い文章に何回も出て来るが、肝心の主旨は見て分かるように、人権行使の義務、責任そして限度なのである。正直なところ、こんな文章を読んで、この政法大学教授の専門を調べる気力すら涌かない。なぜなら、この「和諧権」は法律で定める国民の権利とはとっても思えないし、こんな思想はとっても近代的な法学者の思想とは到底考えられないのである。

中国の人権問題を巡っては、嘗て西側の指摘をかわすために、何新という学者を中心に発案された、中国の特殊性を強調した「生存権」や、「発展権」と云った概念が度々用いられる。これらの概念に関しては、人権とは別ものだとしても、一応「権利」として認められないわけでもない。今回のこの「和諧権」は権利ではなく、義務なのだ。「和諧権」を行使することは、即ち「和諧しろう」ということではなかろうか。

問題なのは、この「和諧権」は提案として議論されている段階に止まっていることではなく、このような憲法無視とも言うべく動きは最近益々活発になっている。その最たるものは「ブログ実名制」である。

「ブログ実名制」は囁かされてから激しい反発を招いているが、遂に実行されることになった。 

今月19日、「中国インターネット協会業界自律工作委員会」秘書長の楊君佐氏が、ブログ実名制の確定を発表した。ニックネームを使うことは認めるとしながら、ブログの開設には身分確認が必要になることが情報産業省によって決められたことを確認した。

いわば言論と表現の自由に係わる重大な事柄が、立法機関の手続きを経ずに実施されようということについて、楊氏は「言論の自由は相対的なものである」、さらには実名制によるネット上の悪言中傷、ないしはプライバシイの侵害を防ぐためだと説明している。

こうした論調は憲法の任意解釈のおそれがあるだけではなく、インターネットユーザーに対して有罪推断を行っているのではなかろうか。

人権には義務を課す、自由には限度があると言い、国民の知る権利はGFWによって激しく侵害されている中、真の「和諧社会」(調和のとれた社会)は果たして樹立されるだろうか。

前回触れた『大国堀起』の上映が中国政府の世界の大国になる意思を表しているのであれば、少なくとも基本人権に対する任意解釈、行政による憲法無視を根絶し、国民の知る権利を大いに保障すべきなのである。

民意を無視した一時的な便法は国の根幹を揺るがし、政権中枢の孤立を招く結果にしかならないことは明白である。

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